世界の建築をリードする日本の建築家とオリンピック(パラリンピック)







無観客開催となった、今回のオリンピック。コロナの流行さえなければと思うと残念ですが、世界的アスリートの方々の活躍はテレビで観戦できます。世界記録が出るのか、どんなドラマが待っているのか、楽しみにしたいと思います。



前回も紹介しましたが、今大会では、1964年東京オリンピックで利用した施設が使われています。このような施設を含め、開催をきっかけに、社会に生み出される、長期的かつ持続的な効果を「オリンピック・レガシー(遺産)」といいます。もう少し詳しくいうと、五輪開催地では、開催へ向けて、様ざまな施設の建設、インフラの整備などが行なわれるため、周辺住民の利便性が高まるわけです。オリンピック憲章にも、「オリンピック競技大会のよい遺産(レガシー)を、開催都市ならびに開催国に残すことを推進する」と記されています。



今大会においても「国立代々木競技場」に加え、少なからず「オリンピック・レガシー」と呼べる新旧施設が競技会場として使われます。これらの建設に携わったのは、日本を代表する建築家たち。「オリンピック・レガシー」を築いた彼らの仕事を紹介していきたいと思います。



安土桃山時代の建築家・竹中藤兵衛正高の末裔がリニューアル



渋谷区千駄ヶ谷にある「東京体育館」は、1956年(昭和31年)に完成・開館した、大規模な競技大会に対応できる国内でも中枢的な体育館です。1958年(昭和33年)に、屋内水泳場および陸上競技場(日本最初のオールウェザートラック(1周 200m))が完成。1964年(昭和39年)の東京オリンピックに際し、小体育館を付設して体操と水球の会場となりました。1990年(平成2年)に改築、2012年(平成24年)全面改修工事がスタートし、翌年(平成25年)に開場しています。さらに2018年(平成30年)からオリンピック開催に伴う改修工事が行われ、2020年(令和2年)施設利用を再開しました。

卓球やフィギュアスケートなどの世界選手権大会をはじめ、数多の国際大会・全国大会が開催されてきた東京体育館のリニューアル(1990年)を行ったのは、「六本木ヒルズ(テレビ朝日本社ビル)」など、数多くの設計で知られる、建築家の槇文彦氏です。槇氏は1928年(昭和3年)東京都出身。槇氏の母は、竹中工務店の会長を務めた第14代・竹中藤右衛門の娘。竹中工務店の創業は、なんと1610年(慶長15年)。戦国の三傑のひとり、織田信長(1534年(天文3年)~1582年(天正10年))の普請奉行(建築担当奉行)を務めていた竹中藤兵衛正高が、織田氏滅亡後、武士を捨て、工匠の道に進んだのが始まりだと伝えられています。




槇氏は東京大学工学部建築学科に入学し、丹下健三氏(国立代々木競技場の設計者)の研究室で外務省庁舎のコンペを担当。1952年(昭和27年)の卒業後は、にアメリカに留学。アメリカの設計事務所、ワシントン大学とハーバード大学で都市デザインの準教授も務め、1965年(昭和40年)に帰国、株式会社槇総合計画事務所を設立し、現在に至っています。国内外で数かずの賞を得ていますが、その中でも、建築家にとって最も名誉ある「プリツカー賞」を受賞(1993年・平成5年)。2011年(平成23年)には、AIAアメリカ建築家協会から贈られる「ゴールドメダル」も授与されました。

なお、オリンピックでフェンシング、テコンドー、レスリング、パラリンピックにおいて、ゴールボール、シッティングバレーボール、テコンドー、車いすフェンシングの会場となる「幕張メッセ(千葉県千葉市美浜区)」も槇氏の設計です。



「日本武道館」を作ったのは、関東大震災からの復興に尽力した建築家



日本のお家芸「柔道」、「空手(形・組手)」の会場となるのが、「日本武道館」です。前回大会のために建設された施設で、1964年(昭和39年)に完成。柔道の会場となりました。今大会を前に増改修工事が行われ、2020年(令和2年)に完了。柔道や剣道などの競技はもちろん、ボクシングやプロレスといった格闘系イベント会場としても利用。また1966年(昭和41年)には、ビートルズ来日公演が行われるなど、音楽イベントも数多く開催されています。

「擬宝珠(ぎぼし。ぎぼうしゅ。神社や寺院の階段、橋の欄干などの上に設けられた伝統的な装飾。ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも呼ばれる)をいただく、個性的な屋根が印象的な建物を生み出したのは、岐阜県出身の建築家・山田守氏(1894年(明治27年)〜1966年(昭和41年))。1920年(大正9年)、東京帝国大学建築学科卒業後は、逓信省(郵便・電信・電話・簡易生命保険などを管理した旧中央行政機関)営繕課に入り、数多くの電信局・電話局(逓信建築)の設計を行いました。1923(大正12)年、関東大震災が発生。山田氏は復興院(後の復興局)の嘱託となり、「永代橋」「清州橋」など隅田川6大橋、お茶の水「聖橋」の設計に携わっています。1929(昭和4年)には、イタリア、フランス、ドイツをはじめとするヨーロッパ諸国、アメリカ、東南アジアに出張し、集合住宅、や老人ホームなど、数多くの建築を見学しました。

戦後、逓信省を退官した山田氏は、1949年(昭和24年)、山田守建築事務所を開設。「東京厚生年金病院(1953年(昭和26年))」をはじめとする病院建築の発展と近代化、学校といった公共施設、「京都タワー・ビル(1964年)」などの設計で、日本のモダニズム建築を牽引しました。

なお、増改修工事の基本・実施設計は山田守建築事務所、増築・改修工事の施工は竹中工務店が担当。何となくオリンピックでつながる縁を感じてしまいます。