知っているようで知らない「窓の歴史と成り立ち」



桜も満開を迎え、いよいよ春らしくなってきました。寒さや花粉を防ぐため、今まで締め切りだった窓を開き、庭の草木を楽しみながら、春風をお部屋に入れられる日が待ち遠しいといえます。

一戸建て、集合住宅、どちらにも当たり前についており、何気なく開け閉めしている窓ですが、「窓はどういう過程で生まれたのか」「昔の人はどんな窓を使っていたのか」と聞かれると、はっきりした答えが出てこないことも多いのではないでしょうか。

そこで今回は、窓についていろいろ調べてみました。



窓の始まりと「寝殿造り」の「蔀戸」


窓の基本的な役割といえば、「部屋の中に光を取り入れる」「換気をする」ことだといえます。それを裏付けるのが、後期旧石器時代から造られ始めた「竪穴式住居」で、アシやカヤなどの茎をはじめ、植物で藁かれた建物の天井部には、光を取る、煙を出すための開口部が開けられていました。これが日本の窓のルーツといえます。当時の窓は穴が空いただけの状態ですから、風雨を防ぐために庇が設けられていました。

竪穴式住居は、やがて屋根が組まれて小屋のような形状になり、建物自体も大きくなっていきます。平安時代には、位の高い貴族が住む「寝殿造り」と呼ばれる建築様式が生まれ、ここで日光・風雨を防いでいた窓のような建具が「蔀戸」です。これは格子を組み、間に板を挟んだ板戸で長押から釣り下げられており、金物で釣り上げて開きました。なお、上下2枚に分れ,上半分だけ上げるものを「半蔀」といいます。大きな板を上げたり下げたりするわけですから、使い勝手はあまり良いものではなかったようです。また、間口が大きい寝殿造りの冬は、かなり寒かったといわれています。高温多湿の日本では「夏を快適に過ごす」ことが重視されたため、風通しの良い蔀戸が主流になったのでしょう。

ただ、庭を眺める時、蔀戸を開け放つことで、全景を見渡すことができました。今も残る有名歌人の和歌の中には、贅を尽くした貴族の美しい庭園から生まれた歌があるかもしれません。



日本家屋の基礎「書院造り」に作られた窓


現在のような窓が現われるのは室町時代中期のことです。銀閣寺に残る「書院造り」には、窓のルーツといえるものが出現します。床張りと蔀戸が中心の「寝殿造り」とは違い、「書院造り」の建物には床全体に畳が敷かれ、襖などの引き違い戸で部屋が仕切られていました。加えて、家族の生活空間、客間、台所、さらには床間や書院なども設えられており、その後の和風住宅の原型となっています。寝殿造りが貴族の住居だったのに対し、書院造りは武家の住居として発展したため、「武家造り」とも呼ばれています。

当時の窓は、書院造りの名の由来でもあり、居間または書斎として使われた「書院」に設けられました。これは書を読むための机があり、書物や硯、筆・文鎮を置く棚なども設けられた、約二畳の畳敷きでした。正面には明かり採りの「書院窓」が付けられ、当時の武士は、その光を頼りに書物を読んだのです。その際、書院窓にはめられたのが、木枠の片面に和紙を張った、採光可能な「明かり障子」でした。明かり障子は平安時代末期に造られ始めたもので、平清盛の邸宅として知られる「六波羅泉殿」で使われたという記録が残っています。風は防ぐことはできても、下してしまうと光が入らない蔀戸とは異なり、閉めたままで採光が可能な建具の誕生は、とても画期的なものでした。

なお書院の形式には、座敷から外に出窓風に設けられた「付け書院(出書院)」、これを簡略化し、棚などを設けずに書院窓だけがついた「平書院(略書院)」がありました。書院窓は採光のみならず、換気にも利用されたと考えられています。書院窓に付けられた明かり障子は、書院様式の家が増えると共に普及していきました。



「障子窓」が普及した江戸時代


和紙が高価だったことから、紙作りがさかんになる江戸時代半ばまで、家に「明かり障子」を付けられるのは武士や裕福な商人といった上流階級のみでした。しかし、庶民の間にも少しずつ広まっていき、様ざまな形や大きさの「障子窓」が造られるようになります。たとえば与力(江戸時代、奉行・所司代・城代・大番頭・書院番頭の配下として、同心を指揮する職種)の役宅に設けられ、横に取り付けられた太い格子が特徴の「与力窓(武者窓とも呼ばれる)」が有名で、屋敷の規模に応じ、この窓がいくつかはめられていました。なお、与力窓の入った長屋もあったようです。また天井には引綱で開閉する「引窓(大和窓ともいう)」が屋根勾配に沿って付けられ、台所などの採光や煙出しに使用されています。茶室建築で「突き上げ窓(突上窓)」と呼ばれる天窓も引窓と同じ用途に使われますが、さらに空を見上る観賞用の役割もあったそうです。



江戸時代にもあった?「ガラス窓」


日本でガラス製の窓が造られるようになるのは明治時代以降ですが、ガラス窓自体は江戸時代から使われていました。それは長崎の出島にあったオランダ商館で、当時のガラス窓は輸入製品だったようです。ガラスの成形や加工は古代から行われており、江戸時代には「ビードロ」をはじめ、食器類(江戸切子、薩摩ガラス)や装飾品も作られましたが、日本国内で窓ガラスを製造する技術はありませんでした。

そのため高価だったガラス窓の使用は、裕福な大名や豪商の住居に限られていました。明治維新後は文明開化に伴い、ガラス工業が発展。安定したガラス生産も可能になり、迎賓館ほかの公共施設、華族の邸宅では建築の西洋化も手伝って、輸入ガラス窓が設けられるようになりました。

とはいえ庶民の間では、まだまだ障子窓が一般的だったそうです。庶民への普及は、関東大震災(大正12年)からの帝都復旧事業を待たなければなりません。






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